アメリカの特許資料を大量に持ち帰った岩倉具視
明治維新とは、そもそも1853年にペリー率いるアメリカ合衆国海軍インド艦隊4隻が久里浜に来航し、浦賀での日米和親条約の締結を皮切りに始まった欧米列強国の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動がベースにあります。この時のペリーは、日本の商業における新しい対象について、できるだけ多くの情報収集をするよう指令を受けていました。1858年に江戸幕府時代が締結した日米修好通商条約には、関税自主権がなく、罪を犯した外国人を日本の裁判で裁けない領事裁判権を承認するなど、不平等な内容でした。
そういった不平等な内容を是正するために、1871年明治政府の主要メンバーであった岩倉具視、木戸孝允、大久保利通は、「岩倉使節団」としてアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に赴きます。政府首脳陣だけでなく、留学生も含むと総勢107名にも及ぶこの大使節団は文明開化への旅でもありました。彼らはアメリカに8ヶ月間も長期滞在し、その後ヨーロッパ各国を歴訪し、その期間は計1年10ヶ月にも及びます。当初は不平等条約の改正が目的でしたが、委任状の不備が判明するやいなや、欧米の現地調査に目的を切り替えます。
この時、使節団はワシントンの名所にもなっていた白い花崗岩作りの特許局(パテントオフィス)を訪問します。アメリカの特許制度の中心である特許局はヨーロッパにもないほどで、館内には特許取得製品の模型が展示されていました。実はアメリカも建国以来、ヨーロッパに追いつけ、追い越せで特許を重視してきたのです。注目すべきは、アメリカで制定された最初の特許法では、損害賠償額が実損の3倍に規定されていたことです。この3倍賠償という懲罰賠償は、米国法のベースとなった英国法にもなかったそうです。このように充実した特許制度の下、白熱電球や蓄音機を発明したトーマス・エジソン、電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベル、動力飛行機を発明したライト兄弟などを輩出し、アメリカの産業は発展を遂げていくのです。
この1年10ヶ月に及ぶアメリカとヨーロッパ視察で、岩倉具視は各国の特許制度に関する大量の資料を持ち帰ります。不平等条約の交渉においては成果が出ませんでしたが、日本における特許制度の整備作業においては大きな成果があったのです。
西洋事情で特許制度について語った福澤諭吉
慶應義塾大学の前身である蘭学塾を創設したことで有名な福沢諭吉。1862年、文久遣欧使節を英艦オーディン号でヨーロッパ各国へ派遣することになり、福沢諭吉は翻訳方として同行することになります。シンガポール経由で地中海に渡り、フランスに上陸し、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ベルリン、リスボンなどを訪問しました。この時福沢諭吉はロンドンの万国博覧会で蒸気機関車や電気機器に触れ、幕府から支給された支度金400両で英書、物理書、地理書を買い込みます。
福沢諭吉は、ヨーロッパの人々にとっては当たり前のことであっても、日本人にとっては知らないことを調べ上げました。そして、日本における洋学の普及の必要性を痛感するのです。1863年に帰国すると、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始します。その『西洋事情』で、福沢諭吉は特許制度について以下のように述べています。
「世に新発明のことあらば、これによりて人間の洪益をなすことを挙げて言うべからず。ゆえに有益の物を発見したる者へは、官府より国法をもって若干の時限を定め、その間は発明によりて得るところの利潤を独りその発明者に付与し、もって人心を鼓舞する一助となせり。これを発明の免許と名づく」
世の中にない新しい発明は、国民に利益をもたらすものです。発明を起こした人間の権利を認める法律を定め、一定期間、発明者が利益を得られるようにすることで、人々はさらに発明しようと邁進するでしょう。そういった活動が、日本の更なる発展につながることを福沢諭吉は説明しています。1866年に発行されたこの『西洋事情』は誰でも理解できるようなわかりやすい言葉で書かれていたため、多くの人に読まれ、共感を得ました。その結果、日本でも特許制度を導入しようという機運につながっていったのです。