ベネツィアの繁栄の起爆剤となった特許制度
265年続いた江戸時代が終わりをつげ、明治維新により明治時代がスタートします。この時、明治政府は西洋諸国に負けないために、内務省が中心となって殖産興業として新しい工場の建設や全国規模での鉄道網の整備など、巨額を投じて国力の増強を推進していきます。その流れの中で、1885年(明治18年)7月1日、専売特許条例が施行されました。これが、日本における特許制度の始まりです。その特許第1号は、1885年京都府の堀田瑞松の「堀田式さび止め塗料とその塗法」です。
もともと特許制度は、中世ベニスで誕生したといわれています。特許を意味する“patent”という言葉の語源は、ラテン語の“patents”に由来するといわれています。Patentsとは、「公開する」という意味です。世界で最初の特許は、イタリアのフィレンツェ共和国で建築家ブルネレスキに対して与えられました。その対象は、大聖堂建設に必要な大理石運搬船の発明でした。建築家ブルネレスキは、資材運搬船から生まれる利益を3年間保証されました。この富と名誉が保証されることが、近代国家における発明を促進させたのは言うまでもありません。
その後、世界最古の成文特許法である「ベネツィア特許法」が1474年に公布され、これによって近代的な特許制度が成立したのです。ちなみにこのベネツィア特許法は、新規で独創的な発明の保護、10年間の長期保護、政府機関への特許登録制度、裁判所の判定による特許侵害者への罰則など、現代特許法の持つ基本要素を一通り備えています。
べネツィア特許法は当時の主要産業であるガラス工芸品の技術を守るために発足された特許制度ですが、その対象は金属加工技術、皮革加工技術、織物技術などにも波及し、イタリアベネツィアの経済発展の推進力になっていきます。16世紀末には、ガリレオ・ガリレイが「らせん回転式ポンプ」の特許を取得したという記録が残っています。これは馬を使った灌漑用水装置ですが、この特許保護期間は現代同様、20年間になっていたそうです。このように、特許制度は発明した人に特別な権利を与え、その代償として内容を公開させることで産業の発展を促進する効果をもたらしました。
日本における特許制度の変遷とは
日本では1885年(明治18年)に特許制度が導入されたわけですが、日本における特許制度はどのように発展していったのでしょうか。当時は欧米先進国の工業技術力に追いつくため、日本独自の技術発明を促進する国家的施策の色彩が強い時代でした。
実は日本における特許制度の導入には、大きな伏線があります。1877年(明治10年)、日本初の内国勧業博覧会の開場式が実施されました。これは1873年のウィーン万国博覧会を参考にして、初代内務卿大久保利通が中心となって当時の明治政府が推進したものです。その背景には、欧米の先進技術と日本の技術の融合という産業奨励的な側面がありました。
そこに出品された臥雲辰致の発明による和式綿紡機は、高い評価を受けました。しかしその構造が単純だったため、その後、多数の模造品が製造されてしまったのです。その結果、臥雲は貧困生活を強いられることになります。当時は発明家を保護する制度がなかったため、そういった事態が起こることを防ぐことはできませんでした。
その後国民の発明に対する関心が高まった結果、農商務省工務局の高橋是清により、1885年(明治18年)の専売特許条例の公布・施行につながっていくのです。ちなみに我が国の商標第1号は、同年認められた京都府の平井祐喜による膏薬丸薬の商標です。3年後の1888年、専売特許事例が改正されて特許条例が公布されます。ここで重要なポイントは、特許の権利は大臣の権限で特別に与えるのではなく、発明者の当然の権利であると定められたことです。
特許というものへのモチベーションには、特許収入による金銭欲だけでなく、自分自身が発明者であると認められる名誉欲、自分の技術や才能に対する誇りがあるといわれています。いずれにしても、技術者やクリエイターの才能と努力が、世の豊かさに貢献する制度になることが重要なのです。